北川陽史《Black as an ideal》
 
YOJI KITAGAWA


2015年
2月6日(金)〜3月22日(日)

A.M.10:00-P.M.6:00(入館はP.M.5:30まで)
毎週:月・火休館
入館料/一般600円、学生500円(小学生300円)

2月8日(日)14:00〜 オープニング・パーティ



★スペシャル・プログラム
2015.2/28『秦国力の『春色探訪茶会』





※ブログをはじめました。美術館からのお知らせや日々の様子をお伝えします。

第一・第二展示室

北川陽史《Black as an ideal》

 2007年より主にグループ展に参加し、作品を発表してきた北川陽史氏。初の本格的な個展となる本展では、近作の立体作品を中心に展観いたします。
 モノトーンの無機的な形状の作品は空間を構成するキャストのように配置され、それぞれの作品は完全に独立した存在を果たしているが、同時に互いに呼応し、無限を予感させる極めて静謐な空間を作り上げている。そして造形物として装飾的な要素が廃された作品は、実際の質量以上のエネルギーを内包しているようにも感じられる。

Black as an ideal

西村 碧

 北川陽史の作品に貫かれている特質は、色彩として黒を使用していることである。とはいえ、この見るに明らかな特徴について初めから触れることは危険でもある。北川が黒という色彩に固執しているかというと、必ずしもそうではないからだ。それではなぜ、黒が用いられているのか。この問いに答えることは、一挙に作品の核心に触れることにもなるだろう。黒は色彩としてではなく、作品を素材の制限から解放する手段として選ばれているのである。展覧会のタイトルからすると、あまりにも現実的な回答ではあるが、これが作者の偽りのない答えであるだろう。

 本展に出品される「羅針」という作品を一瞥して誰しも感じるのは、その明確な形態と共に、大きさや重さといった感覚であるに違いない。当然それは、素材が鉄であることと無縁ではない。だがその印象は作品の全面に施された黒の効果によって(その色彩が重さを喚起するにもかかわらず)和げられ、視線は部分から全体へ、全体から部分へと往還して、焦点は次第に作品の周囲を含む空間全体へと広がっていく。北川は黒を用いることで、形態から物質性を引き剥がしつつ、時にその輪郭を際立たせ、時に危うくもする両義的なものとして扱っているのである。「羅針」に見られる即物的とも視覚的とも言い切れない中性的な性質は、個々の作品の持つ形態と、表面の張りや肌理といった要素間の微妙な差異のもとに成り立っている。すべての形態が内に空洞を宿しながらも決してその内部を見せることなく、いわばすべてが空虚(void)の裏返しとして、閉じられた内部の裏面をわれわれの眼前に曝しているところに、北川の表現の要がある。つまり、内部が空洞であっても、詰まっていても、我々は目で見、身体で知るほかに、正しくそれを知覚する術はないのである。

 北川が黒を基調とした作品を通して求めているのは、このような両義性を前に、見ること、思考することを止めず、「否定形の造形」とでもいうべき立場に軸足をおきながら、それと向き合うことにあるだろう。ここに「造形の否定」とは一線を画す、北川の制作の基本的な態度を見ることができる。言うまでもなく「造形の否定」という観念は芸術の終焉に関係する。しかし北川が「否定形の造形」を通してその先に見ているものは、あくまでも何らかの形に芸術が宿る瞬間である。黒が選択されたのは、色ならざる色としてそれを用いることで、素材と分ちがたく結びついた観念を排し、作品の存立を可能にする条件そのものを厳しく問うためである。逆説的にもこの限定が、幾何学的で抑制的とも見える北川の作品にわずかな揺らぎと色調を与えるところに、「否定形の芸術」の可能性が試されているとも言えるだろう。

 なお、第二展示室における「閉じられた喉」他の作品は、「羅針」とは異なった条件のもとに成立した作品群であることを付言しておきたい。北川が新人の作家として立つにあたっては、「羅針」連作の発表が何よりの望みであった。そのため、これらは必ずしも発表を前提としたものではなく、仮に「閉じられた喉」すなわち沈黙するものとして留めておいたのであった。しかし今回、カスヤの森現代美術館において「羅針」を発表する機会を得て、長年に渡る制作の過程で打ち捨てるようにしてきた作品もまた、北川の制作の裏面を垣間見る一助となると考え直し、それらもまとめて発表することになった次第である。これらは「羅針」制作の陰に隠れてきたものであるが、それゆえにより一層、この展覧会のタイトル「Black as an ideal」が直截に表現されたものとして見ることも許されるだろう。筆者は今、手元にあるテオドール・アドルノの遺著『美の理論』の一節をひきながらその思いを強くしている。「芸術はあり余る貧困を、自発的に自からを貧しいものに変えることによって告発する。しかし芸術は禁欲も告発し、禁欲を単純に自らの規範として立てることはできない。たとえ即物的なものに変えることはなくとも、黒をして理想化させることになる手段の貧困化によって、書かれるもの、描かれ作曲されるものも貧しくなる。もっとも進歩した芸術は沈黙との瀬戸際に立ちながらも、貧困化したものに活気を与える」。(大久保健治 訳)果たして北川の芸術がこの言葉に応えられるものなのか、あるいはそのような必然性がどれほどあるのかは定かではない。いずれにしても、この言葉と照らし合わせれば、些か直接的に過ぎるようにさえ思われる黒の使用には、恐らくアドルノの告発に対する応答の一端が隠されているだろう。その答えは今までも、そしてこれからも、作品を作る者と見る者、双方の目に委ねられている。

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